白鳥氏

丸に二匹両(白鳥氏の紋)

白鳥(しろとり)氏は山形県村山市白鳥地区の豪族で、白鳥城主。

 

白鳥十郎長久の時に代々、中条家が治めていた谷地の谷地城にうつった。
 中条家と白鳥家のあいだにいさかいがあった記録や伝承はなく、戦国時代ということも併せて考えるとなぜすんなり白鳥氏が谷地に入城できたのかは謎である。
 
白鳥十郎は谷地の町や谷地城の整備に尽力。現在4月に行われる谷地ひな祭りは十郎が始めた「市」の名残という。
 

白鳥は山形の最上家と当時、米沢にいた伊達家との争いの仲介をするほどに力を蓄えていた。

また、最上家の跡取りをめぐって争いがあったとき、最上義光(よしあき)の父の側にたって、義光とあらそったこともあったようだ。

 

出羽という地にありながら、京都付近の動向にも目を向けていた。当時盛んだった葉山の修験者から情報を得ていたのだろうか。
 
織田信長が覇者とみるや、「出羽の大将」として信長に馬をおくり、信長からもらった返礼が現存している。

 

代々「羽州探題」であった最上氏の頭越しに破竹の勢いだった織田氏に近づいた。

このことが最上氏が白鳥氏を滅ぼす原因になったようだ。

 

 

当時、白鳥のほかに、寒河江(さがえ)の大江氏なども、最上にとっては侮れない存在であった。

大江氏とは鎌倉幕府の政所、大江広元を祖とする家であり、最上とは何度となく戦に及んでいるようだった。

 

大江に比べると、地元豪族である白鳥は今でいう「コネ」が少ない分、最上にとっては射ちとりやすかったのかもしれない。

しかも、家督争いの時の恨みや最上を出しぬいて信長とよしみを通じたことなど、白鳥は他の武将よりも確実に打ちとっておきたかった存在かもしれない。

 

最上義光は、白鳥十郎と直接弓矢で戦うのではなく、自らは病気だ、最上家の行く末を頼みたい、と十郎を山形城によび、枕元で十郎を斬り殺したという。

 

白鳥の従者と最上は山形城内で激しい乱闘になったが、多勢に無勢。

白鳥は討ち取られてしまった。

 

しかし、最上の家臣、延沢能登守が十郎の首を助かった家臣に持たせ、さらに馬をあたえ、城を抜けださせた、という伝承もある。

 

十郎の首はどこに埋葬されたか。

村山市の次年子の寺。

西川町の八聖山。

など、諸説あって、未だに謎である。

 

十郎を失った谷地城では、同盟関係にあった寒河江の大江と共に最上との戦になったが、谷地城は炎上してしまったと伝えられている。

寒河江側も善戦むなしく最上に敗れ、ここに大江家も滅亡してしまった。

 

十郎の子供は、家臣と共に現在の西川町を通り、逃げのびたともつたえられ、小矢部全一郎氏がその子孫となのっている。

 

また十郎の娘(日吉姫?布姫?)も谷地から逃れるときの伝承も谷地や西川などに残っている。

 

十郎の妻を逃そうと十郎の妻と共に谷地城を抜けた家臣が、現在の河北町北谷地の四ツ塚で最上軍と遭遇、妻を逃した後に討ち死にした、という伝承も残っている。

 

現在、伝承以外の白鳥の記録はほとんど残っていない。

しかし、十郎のことを思う気持ちは今も強い。

とくに白鳥の出生地である村山市の白鳥地区や、十郎が発展の礎を築いた河北町谷地では今も人々の心の中に息づいている。

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村山市白鳥地区

戸沢小学校の北西部の山が「白鳥城」址。

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河北町谷地地区

はっきりした谷地城の址はほとんど残っていない。

河北町役場の北東方向にある三社宮の石垣がかつての土塁とされている。

参考
 「河北町の歴史 上巻」
 「白鳥十郎公物語 槙 清哉」平成7年

 「中世戦乱の村山 中世の東根」 保角里志 平成3年
    「河北町の文化財」 山形県河北町 河北町教育委員会 平成16年

 ホームページ
  河北町公式ホームページ「祭り」
   http://www.town.kahoku.yamagata.jp/matsuri/matsu_01.html

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