白鳥氏と齋藤氏(追記)

『戦国時代 出羽の武将 白鳥十郎公ものがたり 槙 清哉 河北町白鳥会』の

「1、十郎長久公の最期 山形城での誘殺」を読んでいて、思い出したことがある。

 

少々長いが、まずは文を引用する。

 

 城主を謀殺された白鳥側では反撃を計画するのは当然のことで、最上側ではそれに対する万全の対応策を立て、白鳥側の動向を警戒したことであろう。一方、白鳥氏の家臣たちは、最上氏の厳重な探索を逃れるため、白鳥家に関する資料を悉く隠滅し、最上氏に対する謀反と疑われるような言動を慎んだものと推測される。一度嫌疑をかけられれば、、相手の権力には対抗するすべがなく、一家全滅も覚悟しなければならない時代だったのである。

 そのためであろうか、河北地方には”白鳥姓”を名のる家は一軒もなく、当の十郎長久の生年月日も不明であり、白鳥(現村山市)から谷地に進出してきたこと、天正十二年六月7日山形城で謀殺されたこと以外、正確な資料はほとんど残っていない。

 

正確な資料がない分、伝承が数多く残っているとも書いてあった。

 思い出したこととは、以前本家の根際齋藤家で20代長右衛門の妻(根際祖母ちゃん)と話をしていたとき、

 

「先祖は十郎が殺されたとき、姓を白鳥から十郎の奥方の姓『齋藤』にかえて逃れた」

 

と語っていたことである。

白鳥氏と最上氏との婚姻関係については諸説ある、と「河北町の歴史」では紹介されている。

 

十郎長久公に関しては、

  • 長久の妻を義光の娘とする 天正最上軍記・茂木氏蔵系図
  • 長久の妻を義光の姉とする 中里氏抄録「国史」
  • 長久の妻を義光の妹とする 俗説

の3つの説を紹介している。しかし、十郎長久公の奥方がどこから嫁いできたのか、事実ははっきりしないらしい。

 

河北町の歴史で紹介されている、いずれかの説が正しいとしても、妻の旧姓は「最上」であって、「齋藤」ではない。

 

今となっては真実がどうだったかは分からない。

 

もしかすると、河北町の歴史に掲載されてあるいずれの説も誤りで、「根際祖母ちゃん説」が正しいのかも、ということも否定は、できない。

 

山形県教育委員会の「山形県歴史の道調査報告書 村山西部街道ー河西・横山通ー 昭和56年度」には、

 

「四ツ塚は、谷地落城の折、敵に追われた城主夫人は北へ逃れたが、ここでも追いつかれ四人の将兵が身をもって守った場所である。」

 

と載っている。

四ツ塚とは現河北町岩木にある溜池付近のことである。

最上家から嫁いできた夫人を、白鳥の将兵が身をもってまで守るだろうか。

 

また夫人も、もともとが最上家の人間だとしたら、白鳥の家臣を犠牲にしてまで逃れようとするだろうか。

 

最上側と取引するときの人質?

 

やはり根際祖母ちゃんのいっていたことが正しいのかも知れない。

昭和11年に谷地町教育會が発行した『谷地町郷土研究叢書』に堀籠一眞氏が「谷地町に於ける姓氏」という論文を載せている。

 

その中に

谷地の齋藤氏は元、白鳥長久の同族と言はれる。白鳥家の滅亡のあと、此の一門は最上氏に對する自警上、母方の齋藤を名乗った・・・」

という記載があった。

 

また、

「天正六年谷地城落城の際齋藤伯耆、同市郎右衛門の兄弟は(實は長久の弟)長久に殉死して、・・・」

 

「此の伯耆・同市郎右衛門の子孫分かれて三流となり一は谷地に、一は根際に、一は小田島村松澤に各々其の地の名族として続(本書では旧字体)いた。」

 

と記載されている。

 

長久が討たれたのが天正12年、また谷地城落城後に谷地を預かったとされる高擶城主齋藤伊豫を長久の実子とするなど、現在では誤りとされる記載もあるのだが、齋藤に関する文献が少ないなか、大変に興味深い内容である。

 

なお、齋藤伊豫は谷地や根際の齋藤家とは関係がないと考えている。

この点に関しても更に調べる必要がある。  

中央の溜池が四ツ塚。

四ツ塚の西は墓地になっている。

かつては「四つ」の「塚」があったという。

 

なお、四ッ塚に残る伝承は、逃れようとしたのでは妻ではなく姫であった、とも伝わっている。

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