安堵状

河北町の岡田家には、境介次郎に当てた、

「最上義光充行(あておこない)状」が残っています。

天正十五年(1587年)の書状だそうです。

 

また同じ河北町の青木家にも、

谷地小僧丸から青木氏に宛てた「預置状」が残っています。

谷地小僧丸はその小黒印から見て最上義光であるらしいです。

こちらは天正十七年(1589年)の書状だそうです。

 

『寒河江市史 上巻』

いずれも所領の安堵状だそうです。

 

青木家は白鳥氏の重臣で、明治17年に行われた十郎公の300回忌の供養祭の時、四天王として墓前に上下を着けてならんだそうです。

「『天正最上軍記・実録』 鈴木 勲・宇佐見貴子 平成22年 講演資料」

 

白鳥十郎長久が最上義光に殺されたのが天正12年(1585年)なので、数年後に出された書状ですが、重臣といえども所領を安堵するということから、義光の悪いイメージとは逆の一面がみえます。

家督相続に関して、親兄弟と過酷なまでに争った義光。

 

親族には冷酷で信用しなかったが、家臣は大切にした、と伝わっています。

また領民にも評判だったのか、義光の代には一揆がおきなかったそうです。

 

十郎のことに対しては、悪鬼のごとくにいわれる義光ですが、当主としてはなかなかの人物だったようです。

参考

 『寒河江市史 上巻』

 『天正最上軍記・実録』 鈴木 勲・宇佐見貴子 平成22年 講演資料

 『河北町の文化財』 120p-123p 山形県河北町 河北町教育委員会 平成16年11月

 

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