普流稲荷

〜ふるいなり〜

的場山のふもとの北東方向に、稲荷様の社(やしろ)がある。
赤坂に通じる林道からは竹などにかこまれて、社は見えにくいが、かつては赤っぽい鳥居をみることができた。この鳥居も、何年かまえに倒れてしまった。

赤坂から見える稲荷の社(裏側)
赤坂から見える稲荷の社

小さいころ、山にいくたびにこの鳥居や社をみて、何でここに神社があるのだろうと、疑問だった。

この稲荷が伯耆守に関係することを知ったのは私が高校の時だった。
 
そのころ、私の家にも根際の山に畑があったので、春先になると山道普請にでなければならなかった。山道普請とは雪などで壊れた林道を修復する作業である。

 

自宅からは自転車で根際の本家へ。本家に自転車を預けて作業に参加。

 

半日くらい作業をした後、山の神の前で一杯となる。
高校生の私はまさか一杯やるわけもない。お菓子やジュースをいただいて、終わりだった。
 
帰り、自転車を取りに本家によると、「あがてげ(寄って行け)」と声をかけられ、お昼をごちそうになったことも何度かあった。

その折、根際祖父ちゃん(20代長右衛門)と「稲荷様」のことについて話したことがあった。

「弘法の井」に載せたこと重複する部分もあるが、関連することなので。

 

「昔、このあたりには井戸がなくて、うちの井戸に水をくみに来ていたんだ。先祖はこの井戸を大切にするために、伏見稲荷を分霊して稲荷様を祀ったんだ。」

 

稲荷様は農業の神様。
水田は豊富な水が必要。
井戸と稲荷様との関連性だろうか。  

神社への参道
神社への参道

稲荷様の鳥居をくぐり、数段の石段を登ると正面に社、左手には石の祠が二体ある。
地元、河北町が行った石碑・石造物の調査報告によると、竹駒稲荷と栗駒稲荷が祀まつられてあるとのことだった。

 

社が、20代長右衛門が話してくれた伏見稲荷なのだろう、そう思っていた。

参道を登ったところにある祠
参道を登ったところにある祠

たまたま立ち寄った図書館で

先日、たまたま仕事に帰りに立ち寄った尾花沢市立図書館で、想像もしなかった事実を目にした。
 
谷地から、最上川の西を通り、大石田まで通じる道「西部街道」を山形県教育委員会が調査した報告書に、昔の根岸(根際)街道も掲載されていた。
そこに、齋藤家の稲荷様のことも掲載されていた。
 
その記事によると、齋藤家の稲荷はかつて谷地城にあったもので、谷地城から根際に移したものである、とのことであった。

偶然にもその二三日後

現在、米沢に住む20代長右衛門の子息から手紙をいただき、その中に昔の町報のコピーが入っていた。

根際の普流稲荷神社

 〜白鳥公エレジー〜

 

「聞くところによると、最上義光のため一敗地にまみれた白鳥の家臣団は、、散り散りになったが、齋藤伯耆を頭に根際に帰農した一団があったと言う。その折、谷地城において守護神としていた稲荷社を遷し、一族の守り神とし無事を祈ると共に、再起を誓ったという」

 

町誌編纂委員・浅黄三治,町報『べにばなの里 かほく』,昭和56年6月1日

驚いたことに、「根際の稲荷様はかつての谷地城の守り神だった。その守り神を根際に遷したものだった」ということである。

 

「普流」とは何なのか。

 

残念ながら、本を調べても、インターネットで検索しても、これといった情報は得られなかった。
 

社そのものがいつ頃ここに建てられたものなのか、今となってははっきりしない。


十郎公が討たれた後、一族は追撃を避けるため、白鳥関連の記録などを焼き払った、と聞いている。

 

谷地の茂木家に伝わる、十郎公が討たれた後に復元された家系図にも十郎公の弟、齋藤伯耆と齋藤市郎右衛門の記載はない。

それほどに追撃を恐れたとすれば、「一族の守り神として無事を祈ると共に再起を誓うため」に社そのものを根際に遷すことがでたとは思えない。もし、社遷移が最上側につたわっていたら、家臣一族が危機にさらされていたと思われる。

 

また、十郎公が討たれた後の攻防で、谷地城が炎上したといういいつたえもある。

 

こういったことから類推して、社は十郎公が討たれたあとに新たに社を建て、稲荷の霊のみを遷したものではないだろうか。

参拝したおり、社の戸を開けてみたことがある。
中にあるのは、一族が大事にしてきた「再起」の気持ちであり、文化財に類するようなものはなかった。

20代長右衛門がこの世をさり、稲荷様も荒れるに任せっぱなしになってしまった。
 
平成23年3月11日の大地震。
 
稲荷堂と、もうひとつ、齋藤家の守り本尊と伝わっている観音堂が倒壊してしまったのではないか、気になっていた。
しかし、降雪や震災後のバタバタで、確認に行けずにいた。
 
初夏も近づく6月にやっと、このあたりでは月遅れで行う端午の節句の鉈巻きや笹巻き用の笹を取ることを口実に稲荷様と観音堂に行ってみた。
 
祠に安置されている狐の像が転げ落ちてはいたが、幸い、被害らしいものは見つけられなかった。

参考:「観音堂」

参考資料
『西里の歴史ものがたり』 河北町西里地区公民館 1987年
『河北町の石碑・石造物』 河北町教育委員会生涯学習課 1999年

『山形県歴史の道調査報告書 村山西部街道ー河西・横山通ー』 山形県教育委員会 1981年
『町報 かほく ふるさと散歩<その42>』 河北町 1981年6月1日

ホームページ作成

サイト内検索

カスタム検索