観音堂

観音堂の石碑
観音堂の石碑

伯耆守の屋敷跡近くの林の中に、ひっそりと観音堂がある。
お堂の広さは、畳一枚ほどだろうか。
こじんまりとした、建物である。

この観音堂はたぶん、一族以外、地区の人も知らないのではないかと思う。

齋藤家の守り本尊

観音堂への参道
観音堂への参道

亡くなった私の祖父から、この観音様は「千手観音」で、「齋藤家の守り本尊」と聞いている。

登り口に数段の石段があり、その手前の左手に「千手観世音」と刻まれた石碑がある。

 

この石碑の字は私の祖父のものだそうだ。

 

何故か、齋藤の家の者に字の上手な者がいなかったそうだ。
唯一の例外が私の祖父。
そのため、私の祖父の字で、この千手観音の石碑が刻まれた、とのことだった。

 

私の祖父は、20代長右衛門の弟である。

杉皮葺だったころの観音堂
かつての観音堂

私が小さい頃、観音堂の屋根は杉の皮で復かれてあった。

 

現在はトタンの屋根。

 

亡くなる少し前に、20代長右衛門が葺き変えた。

 

昔の屋根の方が時代を感じてよかったのだが、やはり、時代とともに補修が必要だったのではないだろうか。

20代長右衛門が亡くなったあと、私の子共を観音堂につれていったことがある。

普段だったら気にもしなかったのだが、なぜかそのときにかぎり、なかの厨子が非常に気にかかり、無意識に中の厨子の扉をあけてしまった。

中には壊れた、小さな仏像が倒れて入っていた。
私の目から見ても文化財的な価値があるとは思えない。

後世に私の先祖の誰かが納めたのではないだろうか。

しかし、私がなぜ厨子を開けてみたくなったのか、今でも不思議である。

 

小さな千手観音像は手がおれたりして、見るも無惨だったが、まずは厨子の中に納め、改めて手を合わせてきた。

林の中の平坦な部分に立てられた観音堂。

なぜ、観音堂がこの場所にたっているのか。

 

資料も、由来を伝える伝承もなく、今となっては誰にも分からない。

 

20代長右衛門は、何かを知っていたのであろうか。

観音堂の前には広々とした田圃が広がる。

 

その先の村山の盆地が見渡せる。

  ここで、伯耆守は彼方に見える山形などを見おろしながら馬術鍛錬ししたり、また家臣団が鍛錬する様子を見ていたのではないだろうか。

なぜ、齋藤の守り本尊が千手観音なのだろうか。
これもまた、今となっては誰にも分からない

石碑には「小松澤 千手観世音」と刻まれてあるが、最上三十三観音の小松澤観音の本尊は「聖観世音菩薩」である。


なぜ、根際の千手観音堂の石碑に小松澤と刻んであるのか。

 

最上三十三観音小松澤の御詠歌は次のとおり。

「ちちははの はなとそだてし こまつざわ


はるをまちえて みどりたつなり」


この御詠歌を「先祖が築いてきた一族への思い。春を待って、一族が繁栄するように」と解釈すると、白鳥氏復興の思いをも感じるのは、私の考えすぎだろうか。


なお齋藤家観音堂にも独自の御詠歌がある。

齋藤家観音堂の御詠歌

参考まで、白鳥の守り本尊は白鳥地区にある白鳥不動尊である。

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石碑には「小松澤 千手観世音」と刻まれてあるが、最上三十三観音の小松澤観音の本尊は「聖観世音菩薩」である。

なぜ、根際の千手観音堂の石碑に小松澤と刻んであるのか。

また一つ謎がふえた。

千手観音堂には残念ながら文化財としての価値があるような、仏像はありません。

あるのはここにある観音堂と観音堂に対する齋藤一族の思いの歴史のみです。

 

不謹慎な行為を避けるため、また、観音堂の保護のため、観音堂の場所は秘密にします。

参考

サイト 最上三十三観音 http://mogami33.com/guide/no20.html

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