齋藤伯耆守大学

〜さいとうほうきのかみだいがく〜

梅鉢紋
梅鉢紋

齋藤家の紋

戦国武将が人気のようですが、かつて山形城主「最上義光」が、正面切っての戦いを避けた武将が谷地におりました。

 

その名は「白鳥十郎長久」。

 

義光は最上家に白鳥家から嫁をもらい、姻戚関係を作ってから十郎を山形城に呼び、斬りつけた、と伝えられています。

いわゆる「血染めの桜」事件です。

 

その十郎には弟が二人おりました。

 

長男「白鳥十郎長久」

次男「齋藤伯耆守大学

三男「齋藤市郎右衛門」

 

齋藤伯耆守大学のものと伝えられる位牌と齋藤市郎右衛門のものと伝えられる位牌は、谷地の東林寺の本堂奥にひっそりと、白鳥家の位牌とともに祀られております。

 

根際

 

伯耆守は谷地城の西、西里根際を通る根岸(際)街道沿いに「根際守」として居を構え300人の士卒をしたがえていたようです。

 

伯耆守は、根際の地で谷地を西側から守っていたのでしょうか。

 

河北町西里には白鳥十郎の家臣の子孫という方や、十郎にまつわるいいつたえが残っております。

しかし、地元の人は意外に地元が谷地城主との結びつきが強いことを知らないようです。

 

十郎が殺されたとき、家臣団は最上家の追撃を恐れ、関係の書類を破棄してしまったから、でしょうか?

はたまた400年という歳月が口伝えに伝わっていたものを風化させてしまっているのでしょうか。

20代長右衛門の永眠

2009年秋、根際齋藤家の20代長右衛門が永眠しました(伯耆守の跡取りは代々、長右衛門を名のった。そのいわれは不明)

 

高齢とはいえ、病気らしい病気もない人でしたので、その急死には驚かされました。

安らかな、今にも動き出しそうな姿でなくなっていたそうです。

 

連絡を受け、私が駆けつけたときには、歴代を祀る仏壇の前に安らかな表情で、横になっていました。

 

21代長右衛門は当地・西里を離れており、残念ながら子供がおりません。西里には400年続いた齋藤の宗家を継ぐものが途絶えてしまいました

20代長右衛門が永眠した翌年の春に、齋藤家の守り本尊を祀る観音堂や、20代長右衛門が耕作していた畑などを回ってみました。

 

観音堂の近くには、時折使っていたと思われる笹を刈るための鎌があり、畑脇の雑木の枝には作業の時に使っていた軍手がかけてありました。

 

20代長右衛門は90を超えても、毎日観音堂への参拝を欠かさなかった、と聞いております。

 

熱心に「白鳥」のことなどを調べていた20代長右衛門の永眠で、今まで伝えられていたものまでがなくなってしまうのでしょうか。

わたしは分家の齋藤です

私の祖父は急死した齋藤宗家20代長右衛門の弟です。

私の祖父はお互いが若かった頃から、20代長右衛門のことは「あんつぁ」と呼び、仲が良かったようです。

私の祖父のひ孫も20代長右衛門のことを「根際祖父ちゃん」と呼び、なついていました。

 

幸い、私は私の祖父や20代長右衛門から、わずかではありますが根際のことについて何度か、話を聞いたことがあります。

 

根際の歴史は齋藤の歴史であるとともに、地区の宝物であるとも思っております。

 

私が知っていることを、記録に残したいと思います。

 

 

 



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